無意味な延命治
「さっき、ほかの奴《やつ》らがくっちゃべってんのを聞いちまったんだけどさ、一番長くねえのが、あの坊やで、次が俺じゃねえかって……」
「みんな、いい加減なこと言ってんのよ。気にしないで。そんなこと、私たちにだって予測できないんだから」
早苗は、無責任な噂話《うわさばなし》をする連中に怒りを覚えた。悪気はないのだろうが、自分も同じ立場にありながら、どうして他人の痛みにそれほど鈍感になれるのだろう。彼女は、湯気の立つ茶碗《ちやわん》を青柳の手に握らせた。
「俺さあ、もし、動くこともできなくなって、先の見込みもないとなったら、無理に生かしとこうなんてしねえで、ひと思いにやっちまってくれよな」
「ひと思いにっていうのは、ちょっと難しいわ。でも、ホスピスでは、基本的に延命だけを目的とした治療はしないから……」
青柳は、少し安心したように玉露を啜《すす》った。
元は長距離トラックの運転手だった青柳がHIVに感染したのは、異性間交渉によるものだった。
それも、彼自身の女遊びが原因ではなく、妻が浮気相手からうつされたウイルスに感染してしまったのである。心中は察するにあまりあった。
ひと思いに……か。早苗は、青柳の言葉を胸の中で反芻《はんすう》した。もちろん、日本では、安楽死は認められていない。本人か家族の意思が明らかな場合に、療を施さないというのがせいぜいだった。
だが、青柳が言うように、もはや回復する見込みが絶無である場合、患者を耐え難いような苦痛の中に放置するのが、はたして人道的と言えるだろうか。
安楽死問題がいまだに論議の対象にすらなっていないのは、法秩序にいささかでも波風を立てるのを嫌う官僚の画策によるものではないかと、早苗はひそかに疑っていた。たしかに、意識不明の病人に対して家族や医師が勝手に気持ちを忖度《そんたく》して命を絶つという行為は、ある種の危険をはらんでいる。だが、たとえ一言でも本人が意思を伝えられた場合には、苦しみを終わらせてやるのも、立派な終末期医療の一端ではないだろうか。
ホスピスでも、安楽死の問題はタブーに近かった。しかし早苗は、いつか機会があったら、土肥美智子に意見を聞いてみたいと思っていた。
デイルームを出てナースステーションの前を通りかかったとき、早苗は若い看護婦に呼び止められた。
「北島先生。お電話です」